人類の世紀末を想像できますか
「極北」 マーセル・セロー 中央公論新社
今回は,少し重い作品です。
本書は全米図書賞の最終候補作となり,フランスでは格別に優れた作品に送らるリナペルシュ賞を受賞しています。日本では村上春樹さん翻訳で発刊されました。村上さんは,知人の旅行作家であるポール・セローから,自分の息子のマーセルがいいのを書いてるから読んでくれと進められて,やむなく躊躇しながら読んだのだそうです。それが,一旦原書のページを繰りはじめるとおもしろくて止まらず一気に読了し,「これは僕が訳さなくちゃ」と,そんなわけで本書が日本で発刊される運びとなりました。
さて,人類に世紀末がくるとすればそれは何が原因になると思われますか。
映画じゃありませんが,核戦争,巨大地震,隕石の衝突などいろいろ想定することは出来ますが,一瞬にして地球そのものが消滅するような事態にならない限り,世界中には数多くの生存者が残ることになります。そういう場合に数少ない生存者として自分が残ったことを想像してみてください。
ちょっと,怖いですよね。
ところで,そうなった場合,生存者はどこでどうやって生活していくのでしょうか。
その答えのひとつが本書にあります。本書の設定は,極北という題からもわかるとおり,どういうわけか世界中の文明が荒廃した後に,人々は北へ北へと避難していくのでした。その結果,少数民族によって,秩序が保たれていたはずの酷寒の極北の町に人があふれかえります。人が増えればそこに争いが発生するのは世の必然です。人々の利害が対立する中,略奪や殺し合いがはじまります。争いに敗れ去ったものや弱者はやがて新たな楽園を求めて町を去ることになります。そして究極には,荒廃した町にたった1人で暮らすものも出てきます。そう,主人公の「私」は,ゴーストタウンで生まれ育った家にたった1人で規則正しく暮らしていたのでした。ゴーストタウンにたった1人で生きるなんて想像できるでしょうか。必然というか、ひとりぽっちの生活に何らの意味のないことを自覚すると,人は絶望にさいなまれます。それは多くは死に近づきます。しかし,「私」はある日,大空を雄大に飛ぶ飛行機を見て,ゴーストタウンから遠く離れた外の世界の文明の存在に気づきます。いま世の中は一体どうなっているのか。真実とは?その探求に大きな希望を見出し,飛行機が飛び立ったと思われる地をめざして,「私」の壮大な旅がはじまりますはたして,文明はどうなってしまったのでしょうか・・・。という感じですが、いかがでしょうか。
村上春樹さんが訳した本では,チャンドラーの探偵フイリップマーロウが活躍する「ロング・グッドバイ」とかサリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(ライ麦畑でつかまえて)が有名ですが,正直言って,いずれも原書は古典的な書物で,翻訳ものだけに,決して,すらすらと流れるように読むことが出来ませんでした。本書も,読み始めは近未来のSF小説というイメージがあって,あたまから,なかなか入っていけなくて,しかも一人称の「私が」ひとりで物語を語る設定で,こりゃあいかん,もう読むの止めようかとも想いながら進めていたのですが,しばらくすると村上さんではないけれど,ページを繰る手が止まらなくなってしまって読了となりました。
震災による原発の危険性を経験した今,文明の将来について真面目に考えてみるのもいいのかなと考えさせる一冊でした。ちなみに,村上さんがこの本を手がけようと思ったのは,震災前であり,出版は2012年の4月になりましたが,「この小説くらい多くの読者の感想を聞いてみたい」と思ったものはないそうです(了)。

私の一冊について
福岡県弁護士会所属 弁護士 中山栄治が、日々の読書感想やゴルフ体験を綴ったコラムです。