こんな偉人もいました。
「海賊と呼ばれた男」(上)(下) 百田尚樹 講談社
この作品は史実及び実話をベースに,作者百田さんならではの緻密な取材を重ねての小説に仕立てあげました。
モデルはあのアポロマークでお馴染みの大手石油会社出光興産の創業者出光佐三さんです。出光さんは福岡県宗像郡赤間村出身だったんですね。作品中は,主人公国岡鐵造として登場します。物語は昭和20年8月15日,鐵造60歳の終戦からはじまります。鐵造の回想により,終戦当日から戦前と戦後とを行きつして,鐵造の生い立ち,青春時代,晩成期に至るまで伝記はつづられています。そうして昭和56年3月7日,鐵造95年の生涯ととも幕を閉じます。
鐵造の生まれた明治18年は,日本国政史上初めて内閣が誕生した年でした。初代総理大臣はご存じ長州藩出身の伊藤博文です。当時は富国強兵の時代で,鐵造は日清戦争の勝利に子供心に勇気と誇りを覚えます。苦学して天下の難関校神戸高等商業学校,現在の神戸大学を卒業します。学生時代,旅行中に立ち寄った秋田市の八橋(やばせ)油田で,石油のことを知ります。石油は古代文明の存在とともに知られていましたが,本格的に利用されるようになったのは,夜を照らすランプの燃料(灯油は火を灯す油と書きますよね)としてでした。文明国の発展にとって夜の時間を使うことはとても重要なことだったのです。しかしながら,当時,ランプの燃料はクジラの油が主流でした。江戸末期安政年間にぺリーが浦賀に来航していますが,ペリーが開国を迫ったのは,実は捕鯨船の補給基地として日本を確保したかったからなのです。富豪ロック・フェラーは石油の精製で莫大な財をなしたと言われていますが,本格的な油田採掘がはじまったのはペリーの浦賀来航から6年後の1859年アメリカペンシルバニア州でのことでした。石油ランプは鯨油に比べ遙かに明るかった上にクジラのような臭さもなく価格が極端に安かったのです。
鐵造は大学卒業後,当時としては全く予想外であった,いずれ石油は世界を変えるのではないかという漠然とした予感のもと,大商社鈴木商店を蹴って,わずか店員3名の石油問屋に丁稚として入ります。ここで石油の商いの基礎を学んだ鐵造は25歳にして生涯の恩人となる日田重太郎の金銭援助を受けて北九州の門司で国岡商店を起こします。1911年のことです。その後,思わしくない経営の中,その度に重太郎の援助を受けて,生涯を掛けて今日の出光興産を築いていくことになるわけですが,ここから先,見渡すところ敵だらけの幾多の試練がこの物語の醍醐味です。その中のひとつを紹介しますと,石油の争奪に端を発したといっても過言ではない太平洋戦争でしたが,敗戦後,国内の石油を牛耳ったのはシェル,スタンバックなどセブンシスターズと呼ばれた7つの国際的なメジャー企業でした。戦後,石油は完全にマッカーサーらの統制下にあり,国内では石油メジャーからしか石油を仕入れることが出来なかったのです。従って,国内での仕入れは,いくら売る能力があっても売る品物である石油を確保することが出来なかったのです。折しも,英国から独立を果たしたイランが,イランで採掘される石油の国有化を主張し英国と抗争中でした。鐵造はこのイランと水面下での折衝を重ね,世界最大級の巨大タンカー日章丸を極秘に差し向け,直接イランからガソリンなど購入,何と2万2000キロリットルを満載して川崎港へ帰港しました。これに対して,イランで採掘された石油は英国石油会社にあるとして積荷の所有権を主張し法廷闘争となりました。1951年世にいう日章丸事件です。鐵造はこれに完全勝訴します。といった具合ですがいかがでしょうか。
ちなみにタイトルにある「海賊と呼ばれた男」の海賊たる所以ははるばるイランから英国海軍を突破して石油を輸入したことから,和冦に由来したのかなと推測していましたが,直接にはそうではありませんでした。鐵造が個人商店を創業した時代に石油の販売代理店をしていたわけですが,契約上その販売テリトリーは門司を中心とした北九州でしたが,何とかこれを下関や大分にも販路を拡大するために,テリトリーの規制がかからない海上での取引を強行したのでした。鐵造は軽油を満載した手漕ぎの伝馬船で海上で漁船相手に安価な軽油の販売をしたのでした。このことから,当時まさに「海賊」と呼ばれたのでした。
なお,出光興産の創業者一族は2006年の株式上場とともに経営の一線から後退しますが,それまで「会社は家族」という創業者の命によりタイムカードによる労働時間管理や定年制はなかったとのことです。本当にこんな人が日本に実在したのかというのが率直な感想です。上下巻併せて742頁の大作です(了)。

私の一冊について
福岡県弁護士会所属 弁護士 中山栄治が、日々の読書感想やゴルフ体験を綴ったコラムです。