新説巌流島,その後の武蔵
加藤 廣 「求天記 宮本武蔵正伝」 新潮社
季節を問わず,ゴルフに出かけることが多くなりましたが,以前は「夏が好き」「海が好き」で,私の夏はもっぱら海でした。スキューバダイビングをはじめて20年くらいになります。ついでに1級小型船舶免許も取りました。ここ数年間は,夏に数日潜る程度ですが,先日,子どもたちと沖縄本島南部糸満港からボートで繰り出して1年ぶりに潜りました。沖縄の海といえば,世界有数のダイビングスポットと透明度を誇り,あこがれのマリンブルーを見ることが出来ます。水深20mで40m先がよく見えたものです。今でも大潮の時など潮のコンディションのいいときは見れるそうです。それがです。沖縄の海に,昔のような透明度は失われてしまいました。温暖化により海そのものの水質が悪くなったり,珊瑚がオニヒトデの被害で白化(死滅)したり,原因はよくは知りませんが,とても残念です。それでも,福岡では,手近な志賀島とか唐津呼子とかとは,比較するまでもありません。スキューバはタンク1本で,平均水深15~20mで45分くらい海中にいることが出来ます。海中で呼吸が出来るわけですから,経験ない方には全くの別世界が開けます。海中にも潮の流れが効いていて,ドリフトといってそのまま流されるのは楽ちんですが,強い海流に逆らうときは,結構,力強く泳げなければ船に戻れません。海中には本当にたくさんの種類の珊瑚や魚がおり,一度潜れば数十種類に出会うことが出来ます。こないだは,ちょっとした海中洞窟に入って,ライトを照らすと美味しそうな伊勢エビがたくさんいました。もちろん,漁業権の関係でサザエ,アワビも含めてファンダイブで魚貝類を捕ることは出来ません。自身の経験では,水深40mくらいまで潜ったことがあります。水深40mで5気圧となり,そこは薄暗くて水圧でテニスボールが平たい饅頭になってしまいます。ウェットスーツは肌にぴったりと張り付き,空気の消費がとても速くなります。もちろん,人の身体は簡単にいえばスポンジみたいなものですからこれくらいの水圧には大丈夫です。なんせ,フリーダイビング(呼吸機材なし)で130m以上潜る人もいるくらいですから。それでも事故は,そのまま死に繋がりかねない危険なレジャーですから,ルールを守ることが大切です。過去,海中での大物として,マンタ,マンボウ,ナポレオン,クエ,ウミガメ,ネコザメ,ねむりフカ等と出会っています。
童心に返り,下関市立水族館「海響館」に行ってみました。イルカ,ペンギンはもちろん,いま流行のスタイルのアクリル製の様々な巨大水槽の中,たくさんのお魚さんが泳いでいました。この中でダイビングさせてくれないかなと思いつつ楽しみました。海響館は海水の循環装置の関係から,海に隣接しているのですが,目と鼻の先の処に唐戸桟橋があり,そこから巌流島への遊覧船が出ていました。
山口県下関市彦島のすぐ沖合に巌流島はあります。この島,武蔵・小次郎両雄の決闘があったとされる1612年当時の面積は,約5000坪ほどで,低い松林からなる飲み水一滴と出ないただの真っ平らな無人島でした。島の周辺には浅瀬がたくさんあり,江戸時代以前から海の難所となっており,維新後の埋め立てにより当時の約6倍の広さになっています。正式な名称は船島であり,現在もそうですが,島に敗者である小次郎の墓標が造られ弔われたことから,「巌流」を名乗っていた佐々木小次郎から取って「巌流」島と呼ばれるようになったのです。現在は公園として整備されており,武蔵と小次郎の銅像が建立されています。もちろん,誰でも気軽に訪れることが出来ます。
実在した剣豪宮本武蔵(1584~1645)は,新免藤原玄信(しんめんふじわらのはるのぶ)とも名乗っていました。武術修行中の13歳から29歳までに60余回の勝負を行い,そのすべてに勝ったとされています。6尺(約182㎝)の偉丈夫の武蔵は,誰にも師事せず自ら修行を重ね,剣と禅との融和を図りました。その兵法を,はじめ,尊敬していた禅僧の名から円明流と称しましたが,晩年に十文字二刀流となり,二天一流として現在に引き継がれています。武蔵は「人生は一度限り,魂もあの世もない,だから無に耐える」を教えとする禅宗と向き合って,自らの剣の悟りを開いたとされています。それは地・水・火・風・空からなる「五輪書」によって遺されています。武蔵60歳,黄泉に旅立つ1年前でした。
これまで,武蔵をテーマに書かれた小説は,吉川英治を初めとして大量に及んでおり,そのほとんどがクライマックスを小次郎との決闘に置いています。ところが,本作品は,小次郎との決闘の経緯あたりから物語が始まります。作者による独自の調査から,「小次郎は肥後細川家の剣術指南役であったに拘わらず,その妻の影響を受けキリシタンであった。当時,幕府はキリシタンの全面禁制に動いており,細川家は幕府との関係から小次郎が邪魔になった。しかしお抱えの剣術指南役である,そこで小次郎を葬るためにその真意を秘して武蔵に細川家への仕官を持ちかけ,条件として決闘を仕組んだ。小次郎は武蔵の櫂で造った木刀による一撃で破れたが,絶命したわけではなかった。武蔵が立ち去った後,小次郎は細川家家臣に寄って集ってなぶり殺しにされ,武蔵との決闘で即死したことにされた。」という新説をもとに描いています。そして,前後して武蔵が,1600年関ヶ原の戦い,1615~16年大阪の役,1638年島原の乱にすら従軍している様を史実をもとに描きます。
生涯娶らず,子もなさず。43歳にして一切の世俗を断ち切り,晴耕雨画と称して妙心寺にて座禅と墨絵の世界に没入した武蔵。長谷川等伯に倣い,墨絵についても多くの逸品を遺している武蔵。いったい,武蔵は何になりたかったのでしょうか?
本作品はもちろん歴史小説ですが,NHKの大河ドラマとは違う本当の武蔵の姿を見たような気がしてきました。
作者は1930年東京生まれ,東大法卒。中小企業金融公庫,山一証券顧問を経て,経営コンサルタントとして中小企業,ベンチャー企業の育成に活躍。ビジネス書に著作はあったが,05年ベストセラーとなった「信長の棺」で作家デビュー,なんと75歳でした。ちなみに,作者は「信長の棺」では「信長は自害しておらず,予め本能寺に準備していた地下壕に避難した」という新説をもとに描いています,当時の小泉首相も愛読したそうです(了)。

私の一冊について
福岡県弁護士会所属 弁護士 中山栄治が、日々の読書感想やゴルフ体験を綴ったコラムです。